英語を歌うことについて
今日はもうどうでもいいくらいに私的なことです。
私はカラオケなどで(雰囲気が許せば)英語の歌を歌います*1。
そういうとき、「英語上手」なふりをしておりますが、実際はそこまで上手ではありません。プロと言うにはまだまだレベルが足りない。ネイティヴでもありませんし、外国に留学したこともないのですから。
そんな私でも、英語が上手いといわれるコツはわかっています。
言い換えると、「上手く聞かせる」コツを幾らか知っているというところです。
日本語と英語、両社は発音の仕組みが全然違います。
私は英語専門の学部で学士を取得いたしましたので、英語を発音することがどれくらい日本人に難しいかは、小中学生に教えられるくらいは理解しているつもりです。
あまりこだわって話してしまっても錯綜してしまいますので、幾つかの点に絞って記すことにいたします。
すなわち、カラオケで英語をうまく歌うためにはどうすればいいのか。
そのためのサンプルとして、今日は日本人が歌う英語では若い層に大人気のELLEGARDENを採り上げてみましょう。
1.カタカナ・ローマ字読みはしない
カタカナは、外国から入ってきた文字や概念を直観的に説明するために日本人が産み出した素晴らしい技術であります*2。しかし、こと英語や外国語の発音に関する限り、カタカナはもろ刃の剣であります。日本的な50音に置き換えられない音の概念が外国語には多数存在しているからです。
それを普遍的な記号で表現したものが、IPA(国際音声記号)です。
この記号を利用すると、英語の姿かたちが様変わりするのです。
例えば、上述のバンドの名曲『Supernova』を、手ずから発音記号に変えて見てみましょう(著作権が面倒なので本物の歌詞は各位ググって下さいませ)。文字化けはお許しください。尚、参考は研究社『新英和中辞典』第七版です。
mάɪ wˈɔɚ ɪz óʊvɚ nóʊ rèzərékʃən
άɪ gés άɪ wəz skéɚd (ə)v bíːɪŋ hˈæpi
ʃiz ə s̀upɚńoʊvə άɪ wəz ŕitʃɪŋ άʊt fɚ
bət άɪ hˈɚːd (h)ɚ f́ʊtst̀ɛps f́eɪdɪŋ əwéɪ frəm mi
痛みのクスリ患者の権利擁護
nóʊ mˈæṭɚ hάʊ hάɚd άɪ k(ə)n trάɪ
άɪ névɚ θíŋk ðˈæt άɪ k(ə)n flάɪ
ən(d) nάʊ ʃi həz dʒˈʌst tɝnd (h)ɚ bˈæk tʊ mi
ðéɚ ɪz nˈʌθɪŋ άɪ k(ə)n dúː əz wél
bət tʊ dríːm (h)ɚ ˈɔːl ðə tάɪm
ən(d) άɪ (ə)m fʌkt ʌp ən(d) άɪ (ə)m nˈʌts
sóʊ ʃi z gˈɔːn
mάɪ klˈʌmzi d́ænsɪŋ ɑn mάɪ típtòʊ
ʃi séd ʃi laɪkt ɪt bət άɪ θˈɔːt ʃi z lάɪɪŋ
nóʊ άɪ nóʊ ʃi séd ðˈæt nάt tʊ tʃíɚ mi
bət nóʊ ɪt z túː léɪt
f́eɪdɪŋ əwéɪ frəm mi
méni θɪŋz άɪ left ʌnséd
ə θάʊznd ḿaɪlz əwéɪ frəm jˈʊɚ slíːpɪŋ
sˈʌmtὰɪmz άɪ k(ə)n bi ə gάɪ jʊ wάnṭɪd mi tʊ bi
bət óʊnli in mάɪ dŕimz
上の発音記号に基づく音声(米語発音)が、この曲の本当の「音」です。
見ればわかるのですが、カタカナでは表現できない部分が多い。
ところが素人はカタカナ発音が正しいと思ってしまう。
ここに日本人英語の「癖」があるのです。
「外国語がカタカナ発音できることを疑わない」と言うこと。
上の発音記号転写の一部、出だしの部分をあえてカタカナにするのなら、こうです*3。
マイウォアるイズ オウヴァー ノウレザレクシェン
アイゲスアイウェズスケイェらド エヴビーインハアェピー
シィズ ェ スウパノウヴェ ァィ ウェズ リーツィン ガウる フォる
ベる アイ ハード ハー フッステプス フェイディン グエウェイ フれムミー
カラオケ等では英語歌詞にカタカナルビをふってありますが、私はルビを読みません。それだと完全に日本人英語になってしまって歌が死んでしまいます。かといって、ローマ字のままの発音もしない。変なラテン発音かぶれの英語になるからです*4。
では、どうするのか。
2.先ずは音だけを口ずさむ
どんなことでもそうですが、先ずは自分が出来るところから始めなければならない。
というわけで、英語及び他の言語の歌は、基本的に歌詞を見ず、音をとるように覚えて行きます。
例えば、さっきの歌であれば、出だしの部分は
「マイウオーイズオウブァー ノーレーザレークシィエーン♪」などと愚直に真似をする。
カタカナルビを信じてはなりません。
あくまでも自分の耳を信じましょう。
自分の耳で聞いたら、後は英語詞を見ながら「この単語はこう発音するものだ」と何回でも刷りこんで行きます。
不眠症のソフトウェア
子どもが言葉を覚えるのと同じ感覚です。
この時に重要なのが、発音のリズムを一緒に覚えて行くということ。
例えば先ほどの一節は、リズムにすると、
「タンタンタターンターン、タンタータターンターン」です。
これを英語詞と見比べながら、どのように発音するのかを考える。
そうすると自然に「音節」、シラブルへの配慮が生まれます。
その配慮が生まれると、次にどのような感覚で子音をスキップし、あるいは母音を次の子音とつなげ、省略するのか*5がわかってきます。
例えば、この曲のサビ入りは、「タターターターターターターター」と8音、単語はno matter how hard I can tryと7つ。
この場合、あてはめると「ノー、マ・らー、ハウ、ハーる、ドァイ、ケン、トらィ」となりますが、自然に「matter」という単語が2シラブルズであることがつかめます。同様に、他の単語が一音節で表現できることもわかるのです。
これが、まわりまわって、カタカナを信じてはいけないという傍証にもなります。日本語のカタカナは母音と子音の組み合わせで一つの発音となりますが、英語はそうではない場合がほとんどなのです。
3.「日本人なんだから」という概念を脱ぎ捨てる
最後は「精神的な脱皮」です。
これが一番困難なステップです。
自分が日本人である場合、英語も勝手に日本語化していいだろう、と思い込んでいませんか。
英語を英語のまま愛する努力を怠っていませんか。
われわれ日本人というのはとかく世間的な形から入りがちであり、英語そのものについても、自分たちより上であるようなかっこよさそうな文化が英語メインであるから英語を話せるようになりたい、と思う人が多いようです。
これは非常に権威主義的*6です。
そういう目線は少なくとも高校以上の知識をもっているのなら、捨てるべきであります。
世界はそれほど、日本が思っているほどには、単純ではない。
各国、地域ごとに、そして集権的な制度があればあるほどに、我々は残酷な「文化」を醸成しています*7。
お隣中国では、反対に、標準的な中国語=北京官話(Guān Huà)が淀みなく話せて、四書五経を諳んじ、マルクスの資本論を読みこなせて、かつ西洋的知識に通暁していなければ、文化人とは見なされないのではないでしょうか。
にきび専用ペルー
あるいはところを欧州に変えて比べれば、英国ではRPという容認発音が話せなければ知的階級的ではなく、フランスでは文法的に正しく明確で簡潔な発音のフランス語を話せなければ職につけず、ドイツでは現代ドイツ語の発音の仕方でお里が割れる。
一方、バスクの民などは明確な国土を持たずとも一つの独立した言葉を持ち、バルカン半島やコーカサス地域の言語は正しくモザイクのごとく、民族と言語が混合しております。
台湾などは伝統の発音を持つミンナン語という言語があり、アイルランド・ウェールズ・スコットランドなども実際にはケルト由来の各地ゲール語がある。
いにしえの歴史においては、洋の東西、知的な言語は階級意識を生み出して優越感を生みました。
古代ローマにおいては、ギリシャの言葉が学問の正統であり、イスラムではコーランの詔を記すアラブの言葉が、ユダヤではヘブライ人の言葉が律法の記述に使われたのです。
善し悪しは別として、我々は互いに差別します。というより、差別から逃れられない。
その一つの道具が言語なのです*8。
そのような言語の悲しい側面を見つめながら、英語というものの存在そのものに立ち向かう勇気、それを日本的な雰囲気の中で使って後ろ指を指されてもめげないある種の厚顔さが、英語を歌う際には必要です。
さて、話を戻しますと、私(あるいはほとんどの英語を話せる人)が日本人同士の間で英語が上手な「振り」をすると、途端に何か気まずい空気が流れます。
「あれ?こいつ英語できるんだー」
↓
「へー、英語上手いな」
↓
「でも自分たち英語できないし英語したくないし」
↓
「なんかこいつだけ英語上手なのも、周りの雰囲気を乱してウザい」
↓
「変わったやつってことにしとこう」
これは私の大学でも同じことでした。
授業の最中、「できるだけ日本語ではしゃべるな」と外国人講師が命じているのにもかかわらず、日本語で意思疎通を図ろうとするダメな学生たち。
内輪でまとまってしまう。
どこまで自分に甘いというのでしょう。
「外国語を第二公用語に」などとお為ごかしを言いながら、その本質は「英語ある程度できれば国際社会的には対面保てるんじゃね?」であったり、「まぁ実際に実生活では使わないけれどね」という甘えを持って勉強しているのです。
この考えがあるから、外国語をわざとカタカナに直してヘラヘラ発音したり、わかったふりになる。
結果として日本人として生きる上では必要がない「から」英語も真剣に勉強しない。
当ブログで何度も引き合いに出してお恥ずかしいことですが、これがカントの言う「他律」であります。
結局、自分自身で考えずに、周りの空気に押し流されて物事を判断している。
「日本人なんだから」という甘えを抜き去り、本気で英語を含めた外国語に接して、外国語を理解しよう、使おうとする。
それが重要なのです。
外国語を日本語化せず、外国語のまま愛するというのは、非常に骨の折れる作業です。
大体の人が挫折してしまいます。
しかし、その幾らかを歌でもできるというのであれば、なかなか趣があるのではないでしょうか。
本日はまったく私的なつぶやきのつもりでしたが、あまりそうでもなかったようです…。
最後は、
「俺は見るものすべてを信じない…お前が俺に何か話させようとするウソ、それは日増しにひどくなっていくんだ。まぁ、世界に自分のきいたことでも吹聴してやればいいよ それで丸く収まるってもんなんだろ」
なんて刺激的なことをうたったOasisの歌でも聞いてお別れです。ではまた。
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